映画「BILLIE ビリー」
先週の「ビリー・アイリッシュ」に続いて、今週も音楽関係のドキュメンタリーです。取り上げているのは、同じビリーでも生年が約1世紀違うビリー・ホリデイ(Billie Holiday) で、長年にわたって彼女の軌跡を追っていたジャーナリスト、リンダ・リプナック・キュール(Linda Lipnack Kuehl)の取材データを復活させた作品です。
最初に記しておくと、リンダは1978年にカウント・ベイシー(Count Basie)のコンサートを鑑賞した後、ワシントンDCのホテルの窓から転落して亡くなっています。自殺とされていますが、遺書はおろか記録魔の彼女には珍しく何も書き残したものはなく、客室内も特に変わった様子はなかったそうです。ポイントになるのは、彼女が取材を通じてカウント・ベイシーと懇意になっていたことなのですが、それについてはこの映画でも仄めかすだけで断定は避けています。
カウント・ベイシー楽団の絶頂期といわれている1930年代後半、その重要な立役者となったのがレスター・ヤング(Lester Young、通称Pres)というサックス奏者。彼はその少し前からビリー・ホリデイと恋仲で、ビリーの通称である"Lady Day"の名付け親でもあります。
その繋がりもあって、ビリーはカウント・ベイシー楽団とたびたび共演していました。彼女の言葉を借りれば、伯爵(Count)と大統領(Pres=President)と貴婦人(Lady)の組み合わせです。つまりビリーとレスター・ヤングを共によく知るカウント・ベイシーは、リンダの取材活動において非常に重要な生き証人であり、逆にいえばカウント・ベイシーを通じて知るべきでないことまで知ってしまった可能性も否めません。
ご存じのように、ビリーの44年の生涯は毀誉褒貶にまみれたものでした。両親の愛情に恵まれず、10代前半から夜の世界に入った彼女。さまざまな男性、女性と関係を持ち、アルコールと薬物にまみれ、常に暴力と隣り合わせの暮らしの中で成功を目指します。
人種差別が激しいこの時代、南部ではジム・クロウ法のもとでさまざまな分離政策がとられていました。米国南部を演奏旅行する黒人ミュージシャンを描いた映画「グリーンブック」は1962年の話でしたが、ビリーの活動期間は1930年代から1959年まで。彼女が白人オーケストラと共演できたことさえ画期的な出来事だったようです。
たとえば、黒人ミュージシャンを分け隔てなくバンドに参加させたと言われるベニー・グッドマン(Benny Goodman)。リベラルだったと評される彼でさえ、ジョン・ハモンドがビリーと共演させようとした際、評判を落とすのではないかと難色を示したそうです。最終的に彼らのセッションは実現するのですが、リンダの取材テープによると、ベニー・グッドマンが共演を受け入れた理由は18歳のビリーが彼と関係を持ったから。手段を選ばず、のし上がっていくビリーの生き方が滲みます。
リンダの8年がかりの執念の取材は、よくそこまで突っ込んだ話を聞けたものだと驚かされる証言ばかりです。それでもすべてが明らかにされているわけではなく、テープを止めるように言われてスイッチを切る場面も出てきます。映画で描かれた部分だけでも十分に衝撃的ですので、口止めされた部分ではどれだけ差し障りのあることが語られたのか想像すらできません。まさに死人に口なしという結果になったわけです。
音楽関係者やビリーの親族といった身内から、麻薬捜査官や刑務官までさまざまな人の証言を聞くことができるこの貴重な映画。もちろんそれだけでなく旧い映像を蘇らせた彼女の歌唱シーンも見どころです。今回は"Peter Barakan's Music Film Festival"の一環として日本公開されたのですが、さすがピーター・バラカンが選りすぐった1本だけのことはあります。
フェスティバル上映作品のうち新作は「BILLIE ビリー」だけだと思いますが、このブログでもご紹介した映画「AMY エイミー」をはじめ「バックコーラスの歌姫たち」や「マイ・ジェネレーション」など見応えのある作品がラインナップされています。いずれも劇場の大画面で観た方が楽しい作品ばかりですので、この機会を逃さずご覧になってみてください。
[仕入れ担当]
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