映画「帰らない日曜日(Mothering Sunday)」
英国人作家グレアム・スウィフト(Graham Swift)が2016年に発表し、ホーソーンデン賞に輝いた小説の映画化です。こういった評価の高い小説を映画にすると、原作と印象が変わったり、趣きが損なわれていてがっかりさせがちですが、2018年の「バハールの涙 」で評判を呼んだエバ・ユッソン(Eva Husson)監督が原作の内容とスタイルを踏襲しつつ巧みに構成し、英国映画らしい作品に仕上げています。
物語の舞台はバークシャー。レディング(Reading)やヘンリー(Henley)といった実在の地名も出てきますが、その界隈のどこかにあるピーチウッド邸で働く一人のメイドと、邸宅の主が親しく付き合っている近隣の家族が繰り広げるシンプルな物語です。といっても語り口は単純ではなく、1924年3月30日のマザリング・サンデーを後の時代から振り返る形で時間軸を縦横無尽に行き来しながら物語が進んで行きます。
マザリング・サンデーというのは、元々は宗教的な意味合いを持つ日だったようですが、この時代には屋敷の使用人に里帰りのための休日を与える日といった程度の位置づけだったようです。どこにも帰る場所のない孤児のメイドが、一人で過ごすべき休日を一人で過ごさなかったことが物語の発端になります。
ピーチウッド邸には主人のゴドフリー・ニブンと妻クラリー(クラリッサ)が暮らしています。彼らにはフィリップとジェームズという息子がいたのですが、二人とも第一次大戦で失い、壮年夫婦だけの暮らしになって、使用人を料理番のミリーとメイドのジェーンだけにしたようです。
このジェーンがこの物語の主人公。1901年に孤児院の前に捨てられて14歳で奉公に出され、その2年後の1917年にピーチウッド邸に上がりました。姓はフェアチャイルドといいますが、これはグッドチャイルドやグッドボディと同じく孤児に付けられがちな名前だそうです。生まれた日のわからない彼女に与えられた誕生日は5月1日で、1924年3月30日の当時は22歳ということになります。
彼女はピーチウッド邸で働きはじめてすぐ、町の食品店(原作ではティザトンの郵便局)でシェリンガム家のポールと出会います。彼の家はピーチウッド邸から1マイル(約1.6km)ほど離れたアプリィ邸で、シェリンガム家もニブン家と同じくフレディとディックという息子二人を戦争で失い、末っ子のポールが唯一の跡取りです。
ジェーンはポールに誘われ、秘密の逢瀬を重ねることになります。当初は金銭のやりとりがあったようですが、次第に合歓への関心を共有する関係、ポールいわく“友だち”になっていきました。つまり6年あまり恋人のような関係が続いてきたわけです。
しかし23歳になったポールは、近隣の裕福な一族、ホブディ家の令嬢エマ・キャリントン・ホブディと近々結婚することが決まっています。名家はそれぞれの財産が散逸しないように姻戚関係を結んでいくわけですが、この仲間内ではポールしか男子が残っていませんので、彼がエマの許嫁になるのもある種の必然なのです。
そして1924年のマザリング・サンデー。邸宅の主たちは、使用人がいなくても不便を感じなくて済むようにヘンリー河畔のジョージホテルで会食する予定になっています。原作ではポールとエマは親たちとは別にボリンフォード(Bollingford:架空の地名です)のスワンホテルで会うことになっているのですが、映画ではニブン家を含む三家族全員が一堂に会する設定に変えられていて、法律の勉強がしたいので遅れていくというポールを皆が待つことになります。
もちろんポールの勉強というのは言い訳で、両親も使用人も出払った隙にジェーンを屋敷に呼ぶのが目的です。なぜなら、エマとの結婚式の後、法律家として独り立ちするため夫婦はロンドンで暮らすことが決まっていて、今までのようにジェーンと会うことができなくなるから。
つまりジェーンをアプリィ邸に招き、普通の恋人のように正面のドアから入れられる最初で最後の機会なのです。この時代の英国のことですから、階級社会は今より厳然としたものだったでしょう。小説のエピグラフに“お前を舞踏会に行かせてやろう”という、おそらくシンデレラからの引用が添えられていますが、孤児のメイドであるジェーンにとって魔法のような瞬間だったと思われます。
とはいえ、ジェーンにとって魔法のような出来事はその後も起こり、1924年10月にメイドをやめてオックスフォードのパクストン書店で働くようになり、そこで哲学者のドナルド・キャンピオンと出会って結婚し、作家になって大成します。
大御所として老年期を迎えた作家が“自分が作家になった瞬間”として、生まれたときが一度目、パクストン書店の主からタイプライターを貰ったときが三度目、そしてメイドをしていた頃の3月の晴れた日が二度目だったと思い起こしているのがこの小説なのです。
映画も小説と同じく、メイド時代の場面とドナルドと会ってからの場面が入れ替わりに描かれていきますが、ドナルドからそれについて質問された際、生まれたとき、タイプライターを貰ったとき、そしてもう一つは秘密だと答えています。
ジェーンと寝室で過ごし、最後の逢瀬を楽しんだポールは遅れ気味でアプリィ邸を出発します。ヘンリー河畔では、ニブン夫妻、シェリンガム夫妻、ホブディ夫妻とエマの7人がテーブルを囲んで彼の到着を待っているわけですが、エマがいらつくのは当然として、ニブン夫人のクラリーが突然、感情を爆発させます。
これは小説にはない場面で、おそらくこの物語の背景にある戦争の本質を強調するために付け加えられたのだと思います。そのためか、原作では印象の薄いクラリーに、敢えて「女王陛下のお気に入り」の名優オリヴィア・コールマン(Olivia Colman)を配し、その夫、ゴドフリー・ニブンを演じるコリン・ファース(Colin Firth)に困惑した表情をさせる場面を作り出しています。
ほぼ原作に忠実に作られている映画ですが、大きく違う部分としてはドナルドが黒人だということがあります。小説では、ポールに似ていたからドナルドに惹かれたという設定になっていますが、監督に何らかの意図があり、敢えて人種を変えて、まったく違うキャラクターにしたのだと思います。
もう一つ、些末なようで、後に小説家になるジェーンの設定としては割と重要なことだと思いますが、彼女の文学の好みが変えられています。R.L.スティーブンソンの「誘拐されて(Kidnapped)」が出てくるのは同じなのですが、小説で重点を置かれている「青春(Youth and Two Other Stories)」ほかジョゼフ・コンラッドの作品への熱い思いが消え、代わりにヴァージニア・ウルフの作品に言及します。これはちょっとチグハグですので、単に監督の好みのような気がします。
主役のジェーンをオーストラリア出身のオデッサ・ヤング(Odessa Young)、相手役のポールを英国人のジョシュ・オコナー(Josh O'Connor)が熱演しています。コリン・ファースやオリヴィア・コールマンの巧さもあって、全体としてバランスの良さを感じさせる作品でした。
公式サイト
帰らない日曜日(Mothering Sunday)
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