映画「ター(Tár)」
話題作ですね。架空の指揮者リディア・ターを演じたケイト・ブランシェット(Cate Blanchett)の迫力に圧倒されます。
アカデミー賞をはじめゴールデングローブ賞や英国アカデミー賞など各国の女優賞を総ざらいにした「ブルージャスミン」では抗不安薬を大量摂取する壊れた役を演じていたケイト・ブランシェット。本作では身近な人の離反による孤立感と、内面に抱えた重圧で自滅していく役どころを演じます。その演技は素晴らしいとしか言いようがなく、今年のアカデミー主演女優賞は「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」のミシェル・ヨーではなく、彼女を選ぶべきだったのではないかと思いました。
リディア・ターはカーティス音楽院でピアノを専攻し、ハーバード大学ではファイ・ベータ・カッパに選ばれ、ペルーのウカヤリ川流域で先住民族シピボ゠コニボの音楽を研究してウィーンの大学で音楽学の博士号を取得したという俊英です。多くの楽団で指揮して、数少ないEGOT(エミー賞、グラミー賞、オスカー、トニー賞を制覇した人)の一人となり、現在はベルリン・フィルの首席指揮者であることがアダム・ゴプニク(Adam Gopnik)によるインタビューで明らかになります。いわば並外れた上昇志向を猛烈な努力で満たしてきた人です。
ベルリン・フィルで活躍するのみならず、指揮者で投資銀行家のカプランの支援を得て、若い女性指揮者に教育と公演のチャンスを与える“アコーディオン財団”を設立し、ジュリアード音楽院で講義するなど、リディアはその才能を多岐に亘って発揮しています。自伝“Tár on Tár”の出版を目前に控え、またベルリン・フィルで唯一録音を果たせていないというマーラー交響曲第5番のライブ録音に向けて準備中です。
そんな多忙な彼女を支えている一人が、ベルリン・フィルのコンサートマスターであり、同性のパートナーでもあるシャロン。私生活ではペトラという養女を一緒に育て、対外的にはベルリン・フィルの楽団員を主導してリディアをサポートしています。
もう一人がアシスタントのフランチェスカで、副指揮者の座を目指しながらリディアの要求に従順に応えています。
リディアにとってマーラーのライブ録音と並ぶ懸案がベルリン・フィルの人事で、副指揮者のセバスチャンに引導を渡すことと、空きのあるチェロのポジションを埋めることが課題です。しかしもう一つ隠れた懸案があり、それはアコーディオン財団のフェローだったクリスタのこと。どうやら指揮者を目指している彼女と私的な関係を築いた後に切り捨てたようです。
それはニューヨークからベルリンへの帰路、フロントに託されていたという書籍を開いたときに明らかになります。その本はヴィタ・サックヴィル=ウェストの“Challenge”で、ヴァージニア・ウルフの“オーランドー”のモデルだと言われている女性作家が、幼なじみの女性との恋愛を描いた小説です。贈り主がクリスタであること、彼女が何を伝えたかったかが薄々わかり、またリディアがその本を破り捨てたことで彼女の考えが伝わってきます。
序盤にもう一つ、リディアの生き方が顕れるシーンがあります。ジュリアード音楽院での講義で一人の青年が、バッハのような女性蔑視な人生を送った作曲家は、BIPOCのパンジェンダー(pangender)として受け入れられないと主張した際、リディアは音楽家の才能と性別、国籍、宗教、セクシュアリティは無関係だと言い切り、あなたはソーシャルメディアに振り回されているロボットだと切り捨てるのです。アイスランド出身の女性作曲家の例を出すなど多様性を語っているようにも見えますが、おそらく優れた音楽家に道徳心は不要だと言いたいのでしょう。
チェロの候補者選定で私情をはさんだり、副指揮者の後継候補に私情を挟まなかったり、そのときどきの気分で物事を進めますので、周りの人たちとの間に軋轢が生じます。その結果、本人が精神的に追い込まれることになるのですが、それにとどめを刺すのがクリスタの自死。リディアとの間で交わされたメールから、原因が彼女にあるのではないかという嫌疑がかかるのです。
頂点を極めたリディアの栄光に包まれた世界と、その基盤が崩れ去っていく不安に満ちた世界。その間を行き来し、幻聴や幻覚に見舞われながら次第にリディアが常軌を逸していく物語を、トッド・フィールド(Todd Field)監督は細かい説明を省いて小気味良く展開させていきます。サスペンス映画さながらの緊迫感を維持し、2時間半、飽きさせることなく観客を引っ張っていく脚本はアカデミー賞ノミネートだけの価値はあるでしょう。
もちろんベネチア映画祭で2度目の最優秀女優賞に輝いたケイト・ブランシェットの渾身の演技と、周りを固めた俳優たちの巧さも重要です。シャロン役は「東ベルリンから来た女」「誰よりも狙われた男」「あの日のように抱きしめて」「男と女、モントーク岬で」のニーナ・ホス(Nina Hoss)、フランチェスカ役は「燃ゆる女の肖像」「パリ13区」のノエミ・メルラン(Noémie Merlant)、アコーディオン財団のカプラン役は「裏切りのサーカス」「女神の見えざる手」「キングスマン」のマーク・ストロング(Mark Strong)と豪華な配役です。
リディアが課題曲をエルガーのチェロ協奏曲にして依怙贔屓するオルガ役を演じたソフィー・カウアー(Sophie Kauer)は、英国王立音楽院(RAM)とノルウェー音楽アカデミー(NMH)で学んだチェリストで、サントラでは実際にチェロ協奏曲を演奏しているそうです。
上に記したように細かい説明なしで展開しますので、わかりにくい箇所もあるかと思います。
私はエンディングの舞台がフィリピンであること、演奏曲がモンスターハンターのテーマであることがわかりませんでしたが、潔癖症だったリディアが混沌とした猥雑な街に行かざるを得なかったこと、いわゆるクラシックのコンサートとは違った種類の演奏会であることはわかりましたので、映画そのものは問題なく楽しめました。
[仕入れ担当]
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