映画「理想郷(As bestas)」
スペインのガリシア地方には、山林で暮らす野生の馬を追い込み、素手で抑えつけてたてがみを刈るラパ・ダス・ベスタス(Rapa das Bestas)という伝統行事があるそうですが、そんな荒々しい人と馬の肉弾戦で始まるこの映画。監督はマドリード出身のスペイン人ロドリゴ・ソロゴイェン(Rodrigo Sorogoyen)で、このブログでは日本で初めて公開された「ゴッド・セイブ・アス」をちょっとけなし、続く「おもかげ」を褒めながら“次作に期待”と締めくくりました。続く本作は高く評価されているようで、昨年の東京国際映画祭で「ザ・ビースト」のタイトルで上映され、東京グランプリ(最優秀作品賞)、最優秀監督賞、最優秀男優賞を受賞した他、本国スペインのゴヤ賞でも主要9部門を制覇、同じく本国フランスでもセザール賞の最優秀外国映画賞に輝きました。
初公開時は原題そのままの邦題でしたが、今回は物語の発端に絡めた「理想郷」に改められました。これはなかなか含みのある邦題で、意識の高いフランス人夫婦がスペインの山村に移住し、有機野菜を栽培してマーケットで売るという理想的な暮らしを始めたところ、地域住民たちと意識のズレが生じて悲劇に至るという物語です。
先日観たイザベル・コイシェ監督「ひとつの愛」も、都会暮らしに疲れた主人公がラ・リオハの古民家を修復して暮らし始めるお話でしたが、ヨーロッパには田舎に移住する人たちが多いのでしょうか。この「理想郷」の舞台はぐっと西寄りのレオン周辺ですが、打ち捨てられ朽ちた家屋を修復して暮らすことや、集落の住民たちからのよそ者扱いに悩む点は同じです。
脚本は監督自身と、以前から監督とタッグを組んでいるイサベル・ペーニャ(Isabel Peña)の執筆。しかしこの話には元ネタがあって、ガリシア州ペティンの村を見下ろす山あいのサントアージャ(Santoalla do Monte)に引っ越してきたオランダ人夫婦、マーティンとマルゴが地元住民と衝突し、夫のマーティンが失踪した事件がベースになっています。事件発覚後の2010年頃からスペインのニュースを賑わしたようで、2016年には残されたマルゴの協力で「Santoalla」というドキュメンタリー映画まで作られています。
実際の事件は丘陵の放牧権を巡る対立だったようですが、この「理想郷」では風力発電所の誘致とその補償金が論点になります。移住してきたフランス人夫婦、アントワーヌとオルガはオーガニックを軸にした地域の再興を夢見ていますが、現時点では牧畜と若干の農業しか収入源のない寒村です。電力会社が支払う補償金に目がくらんでも仕方ありません。
住民の多くが風力発電所の誘致に賛成ですし、決定が送れて計画が潰えることを心配しています。中でもフランス人夫婦の隣人であるシャンとロレンソの兄弟は、よそ者であるアントワーヌとオルガが反対していることが不満で、バルで絡んできたり、庭先にオルホ(Orujo)の酒瓶を捨てる嫌がらせをします。ちなみにオルホというのはブドウの搾りかすで作るスペインの蒸留酒で、イタリアのグラッパやフランスのマールと似たハードリカーですから、兄弟で一晩に2瓶飲む彼らは一種のアルコール依存症でしょう。
オーガニック志向の夫婦が再生可能エネルギーである風力発電に反対するという設定も風刺が効いていますね。明らかに隣人兄弟の方がタチの悪い人間なのですが、だからといってインテリのフランス人夫婦が正しいかといえば、そうでもないという視点で創られている映画です。人それぞれに現状の生活があり、理想の生活も人それぞれという、ごく当たり前のことを踏まえているところに好感が持てます。
隣人の兄シャンは、バルで話し合おうとしたアントワーヌにこう言います。風力発電所の補償金の話を聞いたとき、自分たちが惨めな暮らしをしていることに初めて気付いた。つまりシャンはこの一件で外の世界との格差を知ってしまったのです。それに対してアントワーヌは“風力発電で豊かになるのはここの住民ではなくノルウエーの企業だ”と説得するのですが、貧困の辛さを知った人に目の前の大金を諦めさせるのは困難でしょう。環境問題は結局のところ経済問題に収束されていくという、これまたごく当たり前の考えが物語の根底にあります。
映画は二つの時期に分かれ、前半ではアントワーヌと隣人兄弟の諍い、後半ではオルガと娘マリーの関係が描かれます。ストーリー的には前半に重点が置かれていますが、映画の味わいとしては後半の方が大きいと思います。前作「おもかげ」を思い起こすと、残された女性の選択や生き方を突き詰めていくタイプの監督なのでしょう。
アントワーヌ役はドゥニ・メノーシェ(Denis Ménochet)。このブログでも「危険なプロット」「疑惑のチャンピオン」「ジュリアン」「悪なき殺人」「フレンチ・ディスパッチ」「苦い涙」など多数ご紹介しているフランスの名優です。妻のオルガ役は「シンク・オア・スイム」に出ていたマリナ・フォイス(Marina Foïs)。対するシャン役は「プリズン211」「ゴッド・セイブ・アス」「戦争のさなかで」のルイス・サエラ(Luis Zahera)で本作でゴヤ賞の助演男優賞を獲得しています。弟ロレンソ役のディエゴ・アニド(Diego Anido)と共にガリシア出身の俳優です。
映画の時代設定ははっきりしませんが、Skypeのビデオチャットを使っていることから2006年より後、警察署の壁にフアン・カルロス1世の肖像が飾られていることから2014年より前だと思われます。スマートフォンどころかブロードバンドも普及していない時代と土地柄が鄙びた空気感を増幅させます。ロケ地はレオンのキンテラ(Quintela de Barjas)の廃屋とビジャフランカ(Villafranca del Bierzo)のマーケットだそうです。
公式サイト
理想郷(The Beasts)
[仕入れ担当]